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最高の車で、最高な音楽を掛けながら、大地に散らばる芸術を探しに行く。

出会いは不純なものだった。

雨季が近づく6月、テレビを見ていると気になるニュースが流れてきた。

美術館にある作品を踏み壊すというなかなかショッキングなニュースである。
そこまで美術館に興味のある人間ではない僕が、やけにこのニュースと美術館が気になっていろいろ調べたりもした。
そこで出会ったのが、新潟十日町で開催されている「越後妻有 大地の芸術祭」だった。

調べれば歴史がながく、街全体に現代アートが展示されている大規模なものであった。まったくしらなかった。世の中知らないことだらけだ。
(そもそも十日町が町じゃなくて、「十日町市」ということに家帰ってきたついさっき気がついた)
僕自身、アートや芸術はまったくわからない。だが現代アートはさらに「よくわからない感」が強くなり逆に「なんでこれを作ろうと思ったんだろう」と考えながら見るのが楽しくなってくる現象に向き合う瞬間がある。

壊されたしまったアートや、そもそも壊せる距離にある美術館、自然に散らばる芸術品に興味が湧いてきた。

夏の終わり。出発のとき。

8月も入り、そろそろ夏季休暇の調整をしようとしていた。特にこれといった予定があるわけでもないので、チームメンバーの予定が出揃ってから間を縫って夏季休暇をいれることにした。
予定がないとはいえだいぶ大型な連休をとることになったので、そのタイミングに合わせてこの芸術祭に出向いてみることにした。

夏季休暇初日、どうせ一人国内旅行だと適当な荷物をかばんに詰め込んで、今年乗り換えたばかりの愛車で一路新潟へ向かう。

車の旅は良い。道中好きな音楽を掛けながら、歌いながらでかけることができる。

出発当日は生憎の天気。群馬あたりから濃霧で前の車が全く見えなかったり、群馬と新潟の県境のトンネル中では霧が入り込んでほぼ何も見えないし、車もよくわからない警告音が鳴り響いていた。

iPhoneのカメラはすごい。実際はこれの3倍濃かった。

霧が濃いトンネルを抜けると目の前は新潟県。川端康成の雪国ばりに「トンネルを抜けるとそこは雪国」という感じだ。先程までの悪天候とは打って変わって、日本海側が晴天だ。

映えるトンネルを目指す

なんでもこの芸術祭で一番有名な、インスタ映えする最高のトンネルがあるという。
トンネル好きとしては見逃せないと、まずはそのトンネルを目指して車をすすめることにした。

そのトンネルがあるのは、日本三大峡谷の一つ「清津峡渓谷」。(日本三大渓谷というものがある事自体、始めた知った。)

入った瞬間、パリピトンネルなのかと思うようなライティング。

展望用の横穴は計3つ

まず最初に出会った横穴には、謎のオブジェクトが一つ。それに人がやけに群がっている。GANTZのあの玉なんじゃないだろうか。恐る恐る近づいてみると、この謎のオブジェクトはトイレだという。

人が居なくなった瞬間を見計らって、中を覗くと

確かにトイレだった。しかもマジックミラーになっており、外がよく見える。緊張するトイレだ。僕なら出るものも出ない気がする。

景色は三大渓谷ということもあって良い景色だった。これを見ながらトイレをするのは、開放感は味わえるかもしれない。たぶん僕は無理だけど。

そして最後の横穴が、一番有名なインスタ映えするスポットだった。

床一面は冷たい山の水が張られており、素足で中に入ることができる。壁沿いは靴でも入れるように底上げしてあるらしいが、あいにく靴底の能力が異様に低い靴を履いてきてしまったので、中に入ることは遠慮しておいた。

トンネル近くにあった大地の芸術祭案内所に立ち寄ると、アートが大好きなスタッフの方と出会い、このトンネルの成り立ち、芸術祭の見どころすべてを教えてもらった。

この芸術祭には中越地震で被害にあった人や、被害によって住む場所を離れなければならなくなった人への想いや祈りもあるという。特に「たくさんの失われた窓のために」はスタッフの方が一番そういう想いを強く感じた作品であるという。

次の目的はその窓を見に行こう。

窓から自然を見る

先程のトンネルから車を走らせること10分ちょっと。到着すると、そこはとにかく景色が良い公園だった。少し高台になっているこの公園は、畑などの田園風景が一面に見られる。

この作品は階段に登り、更に高いところから楽しむことができる。

天気が良いこともあってなんとも幻想的な風景。この窓の向こうに見える田園風景や集落は地震の被害にあって再建したものなのだろうか。窓の向こうには一体何が失われたのだろうか。そんな事を考えたか考えてないかわすれたけど、眺めていた。

トンネルのスタッフの方に教えてもらったが、目的の美術館に向かうまでの導入、数々のアート作品が点在しているようだ。その作品を探しながら現地に向かうことにした。

道中に出会った作品の数々

文字通り山を超え野を超え川を超え、田畑を通り抜けた先に展示品がいくつも存在する。

「ポチョムキン」という名前に惹かれて見に来た
廃校した小学校を利用した作品。
草の匂いがすごい展示。
雪に覆われた景色からインスピレーションを得た作品だという。
「家の記憶」
かつて生活に支えた不用品を黒い毛糸で編み込んである。


目的の美術館へ。

大地に散らばるアート作品を後にし、目的の美術館「越後妻有里山現代美術館 MonET」に到着した。

中央は水が張られて、建物が反射しているようなトリックアート的なものがある

中にはいると、芸術品が動いていた。文字通りグイングインと音を立てながら動いているのだ。

解説を読むと、越後妻有の踊りを表しているようだ。めちゃくちゃ動いている。

家の形をした紙が上から降ってきたり

これはずっと黒い紐が並んでいるだけだとおもって、よく見たら上から真っ黒いオイルが流れていた。
アートはわからないけど、こういう発想はすごいと思うし、とにかく仕掛けが気になる。きっと僕なりの現代アートの楽しみ方は「これどうやって作っているんだろう」って考察することなのかもしれない。

肝心の作品「LOST #6 」はどうだったかというと、とにかくすごかったの一言だった。(写真撮り忘れたが、実際に見たほうが良い)
真っ暗な個室に通されて、じっと待っているとライトが付いている小さい電車のようなものが、レールの上を走っているだけのシンプルな作りだが、一見雑然と置かれた農耕具などを目の間をそのライトが通り過ぎる瞬間に作品が成立し、壁に写された影がもともとの形とは異なるものを見せてくれる。ちょっとした映画か映像作品をみたような気持ちになるものだった。

帰り間際に不思議な作品に出会う。

日も暮れ始めて夕方になってきたころ、展示の終了時間も近づき今夜の宿を探しに新潟市方面へ向かおうとしていたときに、一つの気になる作品名が目に入った。

「新しい座椅子で過ごす日々に向けてのいくつかの覚書(仮)」

よくわからない極みのようなタイトル。なぜかこのタイトルに惹かれてしまい、途中に寄ることにした。アートがまったく分からないので、きっと雑にタイトルで見に行くのもきっと一つの選び方なんだと思う。

到着すると、そこはかなり大きめの古民家だった。

古民家の中に入ると、たしかに斬新な座椅子らしきものが置いてある。

よくわからず玄関にあった説明書きを読み直すと、この作品全体で住人へのインタビューによって構成されているもののようだ。

壁にはこのようにチャプターで別れており、各部屋にインタビューした内容が散りばめられている。

このお屋敷の住人やご近所さんのインタビューを呼んでいると、このお屋敷がいかに特別なものだったのか、どうしてこの「新座(しんざと読むらしい)」が栄えてきたのか、などが書かれていた。
なにやら一つの本を読んでいるような気持ちで、見て回れる作品だ。

かつてこの家で起きた出来事、中越地震のときの話などがあるが、こういう「田舎」や「親戚」「ご近所付き合い」が無縁だった僕自身は、懐かしいようで体験のしたことのない不思議な気持ちで読んでいた。

楽しいだけではなく、家族やご近所さん、歴史との結びきがあるが故のなにか重くてモヤッとしてものも感じたが、こういう田舎や親戚が自分の身近にあったら同じこと思っていたんだろうか。

不思議な感情を持ったまま、この展示を後にした。

全ては終わり、新潟に向かう。

僕には無縁だと思っていたアートや美術館に触れる1日だったが、総じて「行ってよかった」と思えるものだった。とにかく作品数が多く、もうちょっと早く行っていれば、おそらく何回も足を運んだのだろう。

ここのところ仕事もプライベートも悩むことが多かったが、こうやって自然に触れながら、「よくわからない」ながらもアート作品を見るのもたまにはよいものだと思えた。なんかわからないけど、だいぶ自分の悩みは小さいんだなって月並みの感想をもった。

結局芸術品の楽しみ方も、作品が伝えようとしたことも受け取れてない気がするけど、自分なりの楽しみを見つければいいのかなと。

最高の車で、最高な音楽を掛けながら、大地に散らばる芸術を探しに行く僕の冒険は夏の終りを知らせる夕日とともに終わりを告げた。

この後ドライブのつもりで山形の酒田に向かったが、気がついていたら仙台で夜の仙台市内を飲んでいた話はまた今度。


すべてのリアクションはエキサイティングに生きていくための糧にします。